DISC-1

HEART WASH

僕の記憶が正しければ、1st Album「HEART WASH」のレコーディングは1985年の秋から始まりました。
当時Kittyは東京目黒の青葉台に「KRS Studio」、静岡県の伊東市伊豆高原に「Kitty 伊豆Studio」と言う2つの自社スタジオを持っていました。
特に伊豆スタジオは日本初のリゾートスタジオで、海も山も近く、テニス、ダイビングなどの遊びにも事欠かない天国のようなスタジオで、昼間は近くの城ケ崎海洋公園、シャボテン公園、グランパル公園などで遊びまくり、夕方からレコーディングを始めて深夜に乾杯!の毎日でした。

KRSで2,3回のリハーサルを終えて、伊豆スタジオで「夏の翼」「壊れたままのLonely Night」「Blue Monday」の「リズム録り」をしたのが最初だった様に記憶しています。
もちろん曲作りや、その他は都内で行いました。

Drum、Bass、Piano、Guitar のベーシックな楽器録音を「リズム録り」と呼びます。
伊豆でリズムを録って、東京でStrings、Saxなどの楽器やVocal、Chorusを録音する「ダビング」を行う、と言う流れで、伊豆と東京を何往復したか覚えていません。
今でも伊豆は殆どナビや地図など無くても何処にでも行けるほど道に詳しくなりました。

そんな中で作られた1st Album「HEART WASH」について、少々詳しく掘り下げてみましょう。

一言でいうなら、アルバムの中にも記したように「目指した音に到達しそこなった失敗作ではあるが、愛すべき個性的なサウンド」と言う感じでしょうか。
僕はもうちょっと涼しい音にしたかったのですが、今聞いても中高音の塊で、かなり「暑苦しいサウンド」ですね(笑)。


サヨナラ、君のロンリネス

1stシングル「夏の翼」と1stアルバム「HEART WASH」のキャンペーンやらライブツアーやらで1986年の夏は過ぎて行きました。 セールス的には、会社が期待したほどの結果は出せずに(とは言えオリコン30位代で、もし全くCDの売れない今現在ならば、少なくともBEST10には入っていたでしょう)会社内でもいろいろ嫌味も言われました(笑)。

でも「歌のトップテン」とか「ロッテ歌のアルバム」とか当時の全国放送人気番組にも出演しましたので、まぁいい経験させて頂きましたね。

そう言えばテレビやラジオに出演するには放送局の「オーディション」に合格しなければならないんですが(形だけの審査があります)、デビューが同期だと、どこの局のオーディションに行っても会うんですね、同じタレントさんと(笑)。
WINDYの場合は、どこへ行っても「おニャン子クラブ」とか、山瀬まみさん、今井美樹さんと一緒でした(笑)。

さて、皆さん一口にデビューと言いますが、インディーズとメジャーの差が無くなりつつある現在でも基本としてアーティストデビューするには2つの会社と契約する必要があります。

1つはレコード会社。ここは読んで字のごとくレコード(CD)などの「音楽出版物」をリリースするために、または制作するために必要です。最近では別の制作会社がCDを作り、発売するだけのレコード会社もありますけどね(社会でよく言う「丸投げ」みたいな感じです)。
担当者は「ディレクター」と呼ばれ、こことの契約は「録音専属契約」となります。

もう1つはプロダクション(事務所)。
ここは実際のスケジュール(ライブやテレビ、ラジオ出演など全て)を全部取り仕切る会社で、給料もここから出ます。担当者は「マネージャー」と呼ばれ、契約は「芸能活動専属契約」となります。

我がWINDYは、レコード会社が「キティレコード」、事務所が「キティアーティスト」という両方とも「キティグループ」でした。
ちなみに、安全地帯や来生たかおさんなども「キティ=キティ」でしたし、久保田利伸さん、バービーボーイズは「SONY=キティ」といった具合です。

まぁ1年中レコーディングばかりやっている訳でも無いですし、レコーディング自体もスケジュールの一部ですから、当然アーティストとの繋がりは「事務所」のほうが強くなります。
マネージャーとは毎日顔を会わせるわけです(笑)。学校でいう「担任教師」みたいな存在ですね。

で、この二つの会社の担当(ディレクターとマネージャー)の関係が上手く行っていれば良いのですが、WINDYの場合は最悪で…(笑)。
で、諸々の事がやはりマネジャー主導に変わって行ったんですね、この頃から。

夏が終わり、秋には2ndシングルを出す事になっていたのですが、キャンペーンやらライブやらで時間を取られ曲を書く時間が無く、僕自身も納得のいく曲が出来ていなかったある日、リハーサルの合間にスタジオのピアノに向かって曲を書いていたんですが、何とか「サビ」だけ出来ていた曲がありまして…。
それを弾きながら「ラララ」で歌っていると、「良いじゃん、それ! それにしよ! 次のシングル!」とマネージャー氏の声。

「いやぁまだサビしか出来て無いんっすよ…」と僕。

「んじゃぁパーッと作りなよ、早くレコーディングしないと、次、動けないからさ」とマネージャー。

言い出したら聞かない人でした(誰にでも)笑。
まぁ社長崇拝傾向のとても強い会社の中、他社からの移籍組で、あえて社長にもケンカ腰だった所は嫌いじゃ無かったですけどね。

そんな経緯で、サビのみの段階でレコーディングが組まれ(超大物アーティストかっ!笑)あわてて残りの部分を作り、出来上がったのが2ndシングル「サヨナラ、君のロンリネス」なのです。

いやホント、人生の中で「悔い」を数えるならば5本の指に入るような出来事でした。

デビュー、期待、裏切る、と来ると、次って一番大事ですよね!?
今思えば、もっともっと出来る限りの力を出して曲を書かなければならない大事な場面でした。
ある意味この時にバンドとしての成功は遠ざかって行ったのかも知れません(笑)。