Member

メンバーと活動

これまで、完全に僕目線で色々お話しして来ましたが、ここでメンバーについて書こうと思います。

バンドの成り立ちでも触れましたが、船橋市立二宮中学校(ちなみに現総理大臣である野田氏が5級上の先輩であることを最近知りました)の同級生であった稲葉真弘と僕は中学1年に知り合いました。
彼は成績も良く計算が得意で、どちらかと言うと秀才タイプな男でした。
スポーツも得意な方で、自分で言うのも何ですが(笑)僕等はかなり似たタイプだったと思います。

今で言う「鉄ちゃん(鉄道おたく)」だった僕等は、よく2人でローカル線に乗りに行く旅をしました。
また一緒に野球のチームを組んだりもして、とにかくよく遊んでいましたが、決定的に違ったのは彼は長男で、かなり大事に育てられていた(まぁある意味ワガママ放題って事ですね)感があり、何かもめ事など有ると意外と打たれ弱いタイプでした。

それに対して僕は次男で放任主義で育てられたので、悪ガキでケンカばかりしていましたが、意外と打たれ強く、どんな集団に入っても気が付けばリーダーに這い上がっているタイプでしたので、まぁ2人でいても、いざとなると前に出て行ったのは僕だったと思います。

その他にもう一人、重要人物がいたのですが(笑)、その男は残念ながらデビュー時に脱落してしまったので、ここではあえて伏せておこうと思います。
が、今でも僕の最も信頼している友人の一人です。

そんな3人が中学3年に成り、バンドを組もうとした時に、運悪く(笑)僕の後ろの席に座っていたのが村中義仁でした。
彼は本当に穏やかな優しい、何でも「うん、いいよ」と言う男でした。
下敷きにビートルズのレコードジャケットの写真を入れていたので「お前、音楽好きなのか?」と聞くと「うん」と答えました。
「じゃぁお前、ベースやれ!」
僕のこの一言で彼の人生は決まってしまった様な物です(笑)。

彼の実家は新聞配達店で、店(母屋)が手狭だったために、すぐ裏にアパートを借りていて、村中はそこに住んでいました。
高校に入るとそのアパートが僕らのたまり場に成って行き、気付けば他のバンドのメンバーやら、彼女やら、どこぞの女子高生やら、まぁめちゃくちゃな社交場と化していったのです(笑)。

まさに青春でしたね(笑)。


関和則は、デビュー直前に僕の兄の関係していたYAMAHA音楽院でスカウトしました。
新潟出身の彼は僕等3人より4〜5歳下だったと思います。とにかくドラマーが必要で拝み倒す様にして引きずり込みました(笑)。
やや内向的な性格でしたが徐々に自己顕示欲を発揮し始め(それは悪い事では有りませんが)、マネージャー氏の逆鱗に振れバンドを去って行きました。

レコーディングには参加出来ませんでしたが、1987年の秋に、2代目のドラマーとして高木学が参加しました。
オーディションで決めたのですが、彼は絵に描いた様な「やんちゃ坊主」で、ケンカ好きな面白いやつでしたが、もろに体育会系な男だったのでリーダーである僕には絶対的に服従してくれて、とてもやりやすかったですね。

そう言う意味では解散直前のメンバー(サポートメンバー2人を含め)は、とても良い関係でした。
もう少し活動を続けられたら6人バンドとしてやってみたかったです。


何年の何月にどこでライブをやったとか、細かい事は調べれば分かるのでしょうが手元に資料が無いので残念ながらここでは触れません。
ただWINDYのお客さんの層は、とても上品な女性が多く、東京と大阪では集客状況も良かったと思います。
とくに東京新宿のルイードと大阪バナナホールではOLさんを中心にした女性客で常に満員でした。PAや照明のスタッフが「WINDYの客はいい女が多いわ〜」と良く言っていました(笑)。


活動期間中、ほぼ全ての事を僕が決め、稲葉が実行し、村中が雑務をするというパターンがお決まりでした。
こう書くと僕がとんでもない悪者に聞こえますが(笑)、子供の頃に出来上がった関係は、それを維持して行くのが一番楽で合理的なんです。男の場合は特にそうですね。


村中が44歳の若さでこの世を去った時にも、僕が代表して挨拶と献杯をしました。「こいつ最後に逆らいやがった…」と思い、涙が出ました。

実は今回リマスターをするにあたって、当時のジャケット、ブックレットその他すべてのイラストを書いて下さっていた佐々木悟郎氏に、旧作の使用許諾と書き下ろしのお願いに行ったのですが、そこで思わぬ事がありました。

悟郎さんと25年ぶりの挨拶を済ませ、いざ本題に入ろうとした時の事です。
「岩﨑君が来たら聞こうと思っていたんだけど、村中君は元気?」と悟郎さんがおっしゃいました。僕は意外な名前が出た事に驚きながらも「彼は亡くなりましたよ」と答えました。
悟郎さんは絶句され、寂しそうに「そうだったのか…」とポツリと呟きました。

25年前にお世話になったとは言え、当時悟郎さんと面識が有ったのは僕とディレクターだけでしたので、すぐには理解出来ませんでしたが、悟郎さんのお話によると、村中は解散後も悟郎さんの個展に欠かさず訪れていたようです。
そこで話をする様になり毎年年賀状のやり取りする間柄になっていたそうです。

元々彼がデザインやイラスト好きだったのを思い出し、それを告げると「だから楽しそうにいつも来てくれたんだね〜」と悟郎さん。
「だから何年か前に急に連絡が無くなって、心配していたんだ」と…。

そしてこう言って下さったのです。「村中君のためにも、良い物を作ろう! 協力させてもらいます」と…。

その時に、つくづく思いましたね。
「お前、死んでまでも僕の事を助けてくれるのかよ…」って(笑)。
ちなみに2007年にリリースした「FOR A LONG TIME」に収録されている『I’ll say it with a song』は村中義仁に捧げた歌で、僕の生涯で唯一、男性に捧げた歌です(笑)。


そんなメンバーに支えられた僕は本当に幸せ者だったのですね…。
時が流れて初めて気付く事もあるのです。

解散

当時応援して下さっていた皆様には長い事御挨拶も出来ずに、本当に申し訳なかったと思っています。
ただ、当時はインターネットも無く(携帯電話すら無かったのですよ!)自分自身の言葉を伝える手段も有りませんでした。


改めまして、本当にありがとうございました。心より御礼申し上げます。


嘘偽りの無いところで解散の理由をお伝えするならば、事務所からバンドとしての契約を延長する意志がない事を告げられたからに他なりません。
もちろんセールス的に成功しなければプロの世界は厳しい物ですから活動後半は常にその可能性は感じていました。

成功出来なかった理由は色々あったと思います。
前にも触れましたが、デビューの経緯や担当者の軋轢による社内での推進力の無さもあったでしょう。
また80年代はJ-Popが隆盛を極めた時代でもありCDも良く売れた時代です。その分、デビューするアーティストの数も多く、WINDYだけに限らず、惜しまれながら消えて行ったバンドやアーティストは数えきれません。

しかし、敢えて言うならこれはもう「僕自身の力不足」の一言に尽きると思います。
音楽面でも、タレントとしても、人間としても、力不足であった事は痛切に感じます。
全てを押さえ込む様な、圧倒的な音楽を作れなかった事、圧倒的な歌を歌えなかった事、それが成功に結びつかなかった最大の理由でしょう。

言い訳をせずに、心からそう思う事が、僕に新たな道を歩ませてくれた原動力になっていたと思います。