「岩﨑基是&WINDY」の成り立ち

「岩﨑元是&WINDY」は1976年の夏前に、千葉県船橋市立二宮中学校という、ごくごくありふれた公立の中学校で誕生しました。
なぜか当時のバンド名は思い出せないのですが、秋に行われる文化祭のために…という、これまたごくごく普通の理由で誕生したのです。

中学一年から僕と同じクラスだった稲葉真弘(Key)、三年で同じクラスになった村中義仁(Bass)、あとは完全なる悪友二人と僕(Guitar)の5人編成でした。
当時はオリジナル曲などは無く、TULIPなどのコピーをしていました。

また当時はVocalは僕ではなく、稲葉が歌っていました。
当時の僕は歌など全く興味がなく、ひたすらGuitarを弾いていたのです。

それで、まぁ軽く受けた訳ですね、文化祭で(笑)。
「そんじゃぁ高校行ったら本格的にやってみようか…」と、これまたよくある話で(笑)、ズルズルと始まった訳です。

高校に入ると、他のバンドなどとも交流が出来て、地元の文化ホールなどで共同開催のコンサートなどをやるようになり、この頃からオリジナル曲を演奏する様になりました。
とは言ってもメンバー全員、音楽的な素養も無く、もちろん音楽教育なども受けていませんから、レベルとしてはかなり低かったと思います。
唯一、僕だけが兄(音楽大学卒~アレンジャー)の影響で幼い頃からピアノを聴いて育ったくらいで(兄の弾く練習曲ですが)、誰も譜面も読めない様なバンドでした。

当時のバンド名は「フレイトライナー」と名乗っていました。
「貨物列車」という意味で、「目立ちはしないが昼も夜も走り続けるその姿勢が…」と無理やり理由付けをしていましたが、実はコンサートのチケットを刷る間際までバンド名が決まらずに困っていた時に、たまたま当時の両国駅の貨物操車場に「フレイトライナー」という看板がありまして、それを見た僕が「ふれいと…らいなぁ」と呟いたのが、そのままバンド名に成ったものです(笑)。

僕はこのバンドの他に、高校のフォーク部(今で言う軽音ですね)や、吹奏楽部に頼まれて、ドラムも叩いていました。
自分で言うのも何ですが(笑)スポーツ万能の野球少年だったので、ドラムは結構上手かったと思います。
もし今、僕が当時の岩﨑少年にアドバイスするとしたら「プロを目指すならドラムで頑張りなさい」と言うと思います。
この辺が「ドラム打ち込みマニア」になった理由かも知れません。

余談ですが、高校のフォーク部の一年後輩に、とてつもなくギターの上手い後輩が入って来ました。
20年近く経ってから彼と再会したのはスタジオでした。
彼は徳間ジャパンというレコード会社でディレクターとして岡本真夜さんを担当していて、彼女のツアーで「アカペラコーラスのコーナー」があり、僕を含めて4人のスタジオコーラスミュージシャンが参加する事になったのですが、その現場で「岩﨑さん…お久しぶりです」と挨拶されまして(笑)、まぁ何と言うか、時の流れを感じましたね。

そんなこんなで高校生活も半ばを過ぎた頃に、これまたよくあるパターンで「プロを目指す」事に相成りまして(笑)。
今思えば、本当に無謀の極みでしたが、あれを「若さ」と言うのでしょう。
絶対に何とかなると思い「進学」の道を早々に断ってしまいました(笑)。

またまた余談ですが、僕の母は児童合唱団に在籍しラジオなどで歌を歌っていたらしいのですが、諸々の理由で音楽の道へは進めなかったそうです。
そこで二人の息子のうち(僕と兄ですね)一人を音楽の道へ、もう一人をビジネスマンか弁護士(要するにエリートという事だと思うのですが)にしたかったそうです(笑)。
まぁ何と言う「おめでたい」妄想だろうとは思いますが、まさか2人とも音楽の道を選ぶとは思っていなかったらしく、軽くショックを受けていたようです(笑)。

さてさて話をバンドに戻しましょう。
高校卒業とともに我々5人は「プロデビュー」を目指し、千葉県市川市の超オンボロアパートで共同生活を始めます。
昼バイトして夜は練習スタジオ…。明けても暮れてもこの繰り返しでした。
この頃、殆どの曲を書いていたのが僕だったので少しずつ自分で歌い始めた訳ですが、ボーカリスト岩﨑元是の誕生は「譜面を書くのが苦手だったので、曲を伝えるのが面倒だった」という情けない理由からでした(笑)。

3年程たった頃、僕の兄の音大時代の先輩であるプロミュージシャンのお兄さん(複雑ですが…)が、ワーナーパイオニア(当時の大手レコード会社)でレコーディングエンジニアをされていまして、その方にデモテープを聴いて頂きアドバイスを頂く様になりました。この頃から僕の作る曲は「音壁」の要素を持ち始めていたようで「ライチャスブラザースみたいだね」とか「ロネッツぽいね」とか言われたのを覚えています(いわゆるフィルスペクター作品ですね)。

ある日の夕方、その方から電話があり「弟(兄の音大時代の先輩であるプロミュージシャンですね)のアレンジのレコーディングで急に今夜マンドリンを録らなきゃならなくなったんだけど岩﨑君はマンドリン持ってる?」と言われまして(笑)、「いいえ、持ってません」とお答えしますと「じゃぁ12弦ギターは?」とおっしゃいまして(笑)、バンドの稲葉君が12弦ギターを持っていたので「僕のじゃないけどありますが…」と言うと「んじゃ、それもって青山の〇〇スタジオに来て」と、相成りまして…。
てっきり「楽器を貸してほしい」と言う意味だとばかり思って、いざスタジオに行きますと「じゃこれからフレーズ聴かせるから覚えて弾いてね。音を加工してマンドリンに聞かせるから」と…。

「ええ~っ!?」と言う暇もなくレコーディングとなりまして…。
まぁ当時の僕は2,3回聞けば覚える、覚えれば歌える、歌えれば弾ける…と言う感じでしたので、なんとか無事乗り切りました。そして初めて「ギャラ」と言う物を頂きまして、これが生まれて初めてのスタジオの仕事でした。「昨日までお金を払って練習スタジオでギターを弾いていたのに…。ギターを弾いて怒られる事は有っても褒められる事なんて考えられなかったのに…。お金貰っちゃったよ!」と…。
あの日の事は今でもハッキリ覚えています。

そうこうしているうちに、そのプログラムのプロデューサーに「君、バンドやって歌ってるそうじゃない、テープ聞かせてよ」と言われ、お聞かせした所「ふ~ん、良いじゃん、あのさ、2~3オクターブあるインストゥルメンタルの曲を、普通の歌に変えるって出来る?」と言われまして、何を血迷ったか「出来ます」って言ってしまったんですね。これが…(笑)。

その2~3オクターブあるインストゥルメンタルの曲というのが、当時NHKの「シルクロード」という番組の音楽などで高い評価を受け、グラミー賞にも何度もノミネートされていたシンセサイザー奏者(実際に2001年に受賞されています)「喜多郎」さんの曲で、そのプロデューサーというのが喜多郎さんのプロデューサーであり、あの「デビッドフォスター」を日本に紹介して実際にファーストアルバムを作った南里高世氏(デビッドフォスターのファーストアルバムは実は日本産なんですよ)だったのです。

まぁ勢いで「出来ます!」と言ってしまった手前、頑張って仕上げた所「良いじゃ~ん、Good!」となりまして「これさぁ~CMソングになるんだよ、明星チャルメラ知ってる?」と…。
「君、歌ってね、うちからデビューだよ!」と…。
「えええ~っ!!」と言う間もなく話はトントン進みまして…。
「いや、僕バンドあるし…」とお伝えしますと「あぁバンドね、取り敢えずそれ置いておいてさぁ、悪い様にはしないから」と…。

バンドのメンバーには「とりあえず僕が一人で音楽業界って物を見てくるから」と伝えてレコードリリースとなりました。
それが「蒼い風/岩﨑元是with喜多郎」(サウンドデザインレコード/ポリドール)なのです。1984年、22歳の時でした。
ちなみにB面の曲は「好きな曲作って良いよ~」と言われて書いた「Stay by me」。
後にWINDYの2ndアルバムに収録された「I want you to stay by me」と限りなく似た曲で(大人の事情で同じ曲とは口が裂けても言えません(笑))アレンジは僕の兄です。
デビッドフォスター調のアレンジがとても良い感じでした。

その後、そのレーベルで色々仕事をさせて頂いたのですが、肝心のバンドの件が一向に進む気配がありません。
そこでギャラ代わりにスタジオを使わせて頂きバンドのデモテープを録りました。
本当のレコーディングスタジオでちゃんと録音するなんて当時のバンドでは金銭的に絶対に無理な話だったのですが、スタジオの空き時間を使い、かなりしっかりしたテープを録りました。

「ここでバンドデビューは無理だな」と判断した僕は、掟破りの行動に出ます。
そのテープを自分たちが聞いた事のあるレコード会社に送りつけた訳です(笑)。
今でも覚えていますが合計13社に送りました。果たして結果は…。

なんと11社から「会いたい」と…。 嬉しかったですね…ホント。

行きましたよ、伺いました。連絡頂いた会社に片っ端から(笑)。
しかしそこには思いもよらなかった壁が有ったのです。
考えてみれば、まぁそうか…とも思いますが、要するに「君が作詞作曲して歌っている訳でしょ?バンドの演奏も上手くはないし、バンドっぽいサウンドじゃないし、それにバンドは所帯が大きくて金が掛るからねぇ~。君だけなら契約しても良いよ」
と…。揃いも揃って11社中10社までもが同じ答えでした。

前回の「一人デビュー」で少なからず罪悪感を持っていた僕は「う~む…」と考え込みました。
「結局、売れちゃえば我がまま言っても通るかな…」などと色々思い巡らせながら、最後のレコード会社に行ったのです。

キティレコード。
その名の通り黒猫がトレードマークで他のレコード会社と一線を画す会社でした。
所属しているアーティストはニューミュージック系(当時は歌謡曲とニューミュージックというポップス系に大別されていました)ばかりで、アイドルはいない。
人気絶頂の「安全地帯」を筆頭に「来生たかお」「高中正義」「小椋佳」などが所属し、プロダクションとしては「井上陽水」「RCサクセション」「上田正樹」「カルメンマキ」「センチメンタルシティロマンス」「バービーボーイズ」「H2O」「久保田利伸」など、アマチュアにとっては正に「憧れ」の会社でした。
さすがに音楽系!バンド系!(笑) めでたく契約して頂きました。

WINDYが幸運にもニューミュージック系のキティアーティストに所属し、キティレコードからデビュー出来たのは、実のところ唯一の選択肢だったのです。
ただし、それなりにシビアな要求もありました。演奏力に欠けるメンバーの変更です。
しかしこの件はプロを目指した時からメンバーには言ってありましたし、メンバーも理解していた事なのです。進める人間だけで進むと言う事は決まっていた約束だったのです。
ドラムの関和則をオーディションの後にスカウトし、WINDYは4人バンドとして歩き出したのです。
1985年、23歳の時でした。

当時のキティグループ(レコード会社、プロダクションの他、映像会社など多数の会社がありました)は、多賀英典氏という大プロデューサーにして社長がいらっしゃいまして(ちなみに日本初のミリオンアルバム「氷の世界/井上陽水」は多賀氏がポリドールのディレクター時代の作品で、これを契機に独立されたとの事です)、映画の制作や監督などもされる方でした。

実のところ、1986年の「会社一押し」は別のバンドに決まっていたのですが、社長が映画を製作している間に、まぁ言ってみれば第二勢力グループがゴリ押しでデビューさせたのがWINDYだったんですね。
ありがたい事でしたが、やはり最後はこの事がネックになったと思います。

とは言え、会社や多賀社長には良くして頂きました。最初は(笑)。
「安全地帯」もそうですが、漢字や変わった名前がお好きな方で、僕の「岩﨑元是」と言う誰も読めないであろう本名を「読めない所が良い!」と…(笑)。
ディレクターが付けたWINDYと言う名前に本名をくっつけたのも社長でした。
まぁこれが後々散々死ぬ程言われた「杉山清貴&オメガトライブ」に似ている件の始まりでした。
仕舞にゃ「声までソックリだ」とまで言われましたからね…。

1986年5月、東レ株式会社のCIが”TORAY”に代わるTVCMのタイアップが急遽決まり、「夏の翼/岩﨑元是&WINDY」はリリースされました。

バンド結成から10年、兎にも角にも夢は叶ったのです。